カテゴリ:八重山諸島( 31 )

2011年 09月 05日
八重山を自転車で旅して
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一月は波照間歳暮風(ハティローシーブバイ)。旧正月ころにふくおだやかな南風。
三月には二月風廻り(ニンガチカジマーイ)。漁民にとって台風についでおそれられている風。
五月には小満・芒種の風(スーマンボースー)。梅雨である。
二十四節気の小満から芒種にかけての篠つく雨の季節。
六月は夏至南風(カーチベー)だ。梅雨あけ直後にふく南風。
七月は火風(ピーカジ)。台風である。
とくに雨が極端にすくなく火事のあとのように山やまが赤ちゃけてしまう。
十月になると新北風(ミーニシ)がふく。北風がふきはじめてあつさもやわらいで、すずしくなってくる。

ここ八重山にも四季おりおりの生活がある。季節ごとにふく風をかんじながらいきている。
わたしたちも、いろんな風をしっている。
「まぜ」、「いなさ」、「こち」、「あいの風」、「だし」、「はえ」、「のわき」、「やまぜ」など、名前がついている。
「まぜ」は瀬戸内から伊豆地方、太平洋沿岸にかけてつかわれる。春から夏にかけてのよわい南風だ。
「いなさ」は海からふく南東、南西の風。なさけのいなさともよばれ、春のめぐみをもたらす風だ。
「こち」は春にふく東の風。梅東風、桜東風という名をつけてよんでいる。
「あいの風」。夏、日本海側でふく北寄りの風でつよくなく、すずしい風である。
帆船ののぼり順風として利用された。北陸に海の幸をもたらす素性のいい風だ。
「だし」は陸から海にふき、船出にべんりな出風を意味する。日本海側では東、南東風である。
「はえ」は山陰、西九州地方の南風。「のわき」は台風。
「やまぜ」は冷害の風としておそれられている。山をふきこえてくる夏の東風である。
風の国日本では、各地方に風がいきている。
民俗学ではそうとうな研究もされているだろうが、ひとつおもしろい説をみつけた。
たたら集団にとって風の神は風をおこす神であった。
しかし農耕の発達によって風の神は風をしずめる神となったという。
たたらは風を必要としたのである。

 わたしたちは今、西表石垣国立公園竹富島ビジターセンター「ゆがふ館」にいて、展示をみていたのだ。
朝、神戸をたって午後にはもう竹富島にいる。自転車をもって六人でやってきた。老年自転車隊である。
石垣島を中心として、竹富島、西表島、黒島、小浜島を自転車でめぐる旅にでたのである。

石垣港の様子はずいぶんかわっていた。
以前にきたときは、港は各船会社がめいめい独自に運航し、
どの船にのるのかさえもききまわってのったような印象がつよかった。
今、港は整備され案内もよくゆきとどいている様子だった。

竹富島は石垣港から高速艇で約十分だ。港につくと雨になった。
あわてて「ゆがふ館」にはいったて雨やどりをしたのだった。
時間もたってきたので、おもいきって雨のなかをはしりだす。集落へつくと、どしゃぶりになった。
しばらく店の軒下でじっとしている。
しばらくすると小雨になってきたので、
西桟橋、コンドイ浜、カイジ浜、蔵元跡を自転車でめぐって港にもどった。

旅にでる前、「先島自転車旅」という名の計画だった。
しかしわたしたちがゆくのは八重山のみだった。
先島は八重山列島と宮古島列島の総称だったので、「八重山自転車旅」とした。
近世八重山の資料では沖縄には八重山はふくまれていなかったそうだ。
宮古島、八重山は両先島とよばれ、沖縄と両先島をあわせて国名として琉球とよばれたのだった。
今も、先島の人は那覇へゆくのを沖縄へゆくというそうだ。先島は沖縄ではないという意識があるようだ。

 翌日は西表島にむかう。昨日とはちがって大型の船だった。
すでに団体客で満席になっている。西表につくとまたしても雨。
レンタカーをかりることにして、自転車はあずけておいた。
車ではしるとアップダウンの連続だ。雨でよかったというのは全員の意見であった。
サキシマスオウノキのおおきな板根をみて、
由布島、マングローブクルーズをたのしんで、西表温泉につかった。
この温泉は水着をきてはいるようになっていたのだが、
ここでひとり朝ホテルをでるときから海水パンツをはいてきた奴がいて
かえりのパンツがないというパンツ事件もあった。

 つぎの日は黒島一周。この島は平坦で、はしりよい島だった。まさに風をかんじる自転車旅である。
牧場にそってはしってゆく。
人口二百二十六人、牛二千九百八十七頭と黒島研究所に掲示されていた。
小浜島では漁港まで一気のくだり坂によろこんだ。
民俗資料館では、ここの奥さんにいろいろと話しをきいた。
今もハレの日のために孫に布をおってきせているという。

八重山には全国各地からわかい人たちがやってきて仕事をしている。
そしてその人たちのネットワークができているようだった。
黒島の港でであった女の子はインターネットでこの島の民宿をさがしてはたらいているというし、
小浜島のリゾートホテルの従業員の女の子もインターネットでさがして就職したという。
今や女性たちもしっかりしたものだ。

 八重山で興味があったのはオヤケアカハチである。
十五世紀、各地で首長が発生し抗争がたえなかったが、やがてアカハチ、ホンガワラが優勢となっていった。
琉球王国の歴史からすると首里の国王に敵対し征服されたアカハチ・ホンガワラの乱とよばれることになった。
石垣島にはフルスト原遺跡があり、アカハチの居城跡といわれアカハチの像がある。
うまれ故郷の波照間島には碑もあるということである。英雄なのだ。

当時、宮古島には与那覇、仲宗根の豊見親がいた。
トヨミは口ぐちにいいはやし、世間にいいはやしつたえるという意味の尊称で、親は長老という意味である。
与那覇は琉球国の力をもって島内の抗争をしずめようとかんがえた。
時の琉球王尚真王にたいし、島の争乱は島民の衣食が過分でゆたかなためだとかんがえ、
年貢をもっととりたてて辛苦労働しなければいきてゆけないようにすべきだと朝貢をもうしでたのである。
一方仲宗根も植民策をかんがえ、八重山にも朝貢をすすめたのだ。
しかし、八重山はゆたかで、争闘もすくなく服従しなかった。
そのため八重山征伐の奏請を王府におこなった。琉球は先島の征服をゆめみていたのだった。
ついに琉球・宮古の連合でアカハチを討伐したという。
柳田國男のかたる島の人生である。
なお、島では酋長のことをカワラとよんだのであるが、アカハチとホンガワラは二人説、一人説があるそうだ。

 琉球である。一六〇九年、島津侵入事件がおこる。
背景には幕府の対明政策があった。
また島津氏には隠知行に象徴される大名権力の矛盾の打開があった。
徳川幕府は一六世紀半ばに断絶した日明国交回復を対外政策の基本としたのである。
その交渉を琉球に斡旋させようとして、琉球に聘問使の派遣を要求した。
聘問とは礼物をたずさえて訪問することである。しかし琉球はそれに応じなかった。
この来聘問題にたいして薩摩に打診をおこなってきた。来聘問題は薩琉間の政治問題となっていった。

そのころ幕府命の慶長国絵図、郷帳が完成し、島津家には隠知行があかるみになっていた。
島津氏は奄美大島入を画策し、隠知行の解決のために大名権力再編をはかり財政難打開をはかろうとした。
徳川家康に外征をねがいでて許可をうけた。
島津氏の私的政策であった大島入は幕府公認の琉球入に発展したのである。
一六〇八年島津氏は琉球の来聘交渉に見切りをつけたが、家康は出兵準備と来聘交渉を命じた。

ついに一六〇九年、島津氏は家臣団にたいし軍役令をだして琉球をせめた。
その結果、家康は功を賞して島津氏に琉球をあたえた。
島津氏は沖縄以南を琉球王府領とし、薩摩への毎年の貢物をさだめ、
奄美諸島は島津氏の直轄地としたのである。
現在奄美諸島は鹿児島県であるが、文化的、歴史的には沖縄に親近感をいだいているという。

琉球はこの島津侵入後も中国と通交があり日中両属となっていた。
琉球は中国から冊封をうけていた。
冊封とは中国の朝貢国となり中国の体制に組み入れられることを意味する。
冊封をうけると、定期的に朝貢し、中国の要請に応じて出兵し、
臣礼を遵守するかわりに外的の侵略時には中国の庇護が保証されるのである。

 竹富島で蔵元跡へいった。蔵元とは役所であった。
首里から御目付役として在番が常駐していた。在番一人、在番筆者二人がおり、三年交代制であった。
島全体の監督をおこなう直接統治であった。
両先島には蔵元がおかれ島役人として頭、首里大屋子、与人、目差が王府からさずけられていた。
島役人は士族身分とし、島役人は蔵元へ出仕したのだ。

島政の経済基盤は人頭税である。各個人に頭割りに課す税である。
かぞえ十五~五十才の男女を正頭として、正頭を賦課対象にした。
米、麦、粟、労働の使役を課したのである。
宮古、八重山にかんしては米、麦、粟のかわりに反布納入を義務づけた。
宮古上布、八重山上布というのはそのころおられた布である。
この人頭税は琉球処分後もながくのこっていて、一九〇三年に廃された。

 わたしはこの八重山の旅でずいぶんいろんなことをしった。
よく「いった」「みた」というのがおなじ所へ旅行したひと同士の会話である。
それ以上はあまり発展がない。
どこの土地にいっても歴史がある。まず歴史からはじめるとよく理解できるかもしれない。

年齢をかさねていまや雑念のすくない歳になった。
雑念がなくなることは勉強に最適だ。
わたしたちは自転車がある。折りたたみ自転車はどこへでもでかけられる。
自転車は勉強の道具だ。
梅棹忠夫がいっている。
「あるきながら本をよみ、よみながらかんがえ、かんがえながらあるく。
これはいちばんよい勉強の方法だ」
勉強しながらの旅もまたひとつの旅のスタイルだ。
みて、きいて、かんがえる旅。旅の興味はつきない。

by seascape_point5 | 2011-09-05 17:09 | 八重山諸島 | Trackback | Comments(4)
2010年 04月 03日
セマルハコガメ
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石垣島にて

by seascape_point5 | 2010-04-03 06:41 | 八重山諸島 | Trackback | Comments(0)
2010年 04月 02日
看板
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黒島にて

by seascape_point5 | 2010-04-02 08:29 | 八重山諸島 | Trackback | Comments(4)
2010年 03月 31日
町散歩
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石垣島の商店街にて

by seascape_point5 | 2010-03-31 08:00 | 八重山諸島 | Trackback | Comments(2)
2010年 03月 30日
いらっしゃい
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おーりとーり

by seascape_point5 | 2010-03-30 19:07 | 八重山諸島 | Trackback | Comments(2)
2010年 03月 30日
石垣島の夜
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甕からの泡盛
おいしかったそうな

by seascape_point5 | 2010-03-30 08:54 | 八重山諸島 | Trackback | Comments(2)
2010年 03月 20日
真剣に
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由布島にて

by seascape_point5 | 2010-03-20 07:31 | 八重山諸島 | Trackback | Comments(2)
2010年 03月 19日
イリオモテヤマネコ
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西表島
西表大原郵便局にて

by seascape_point5 | 2010-03-19 09:58 | 八重山諸島 | Trackback | Comments(0)
2010年 03月 18日
雨上がりに
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由布島にて

by seascape_point5 | 2010-03-18 14:40 | 八重山諸島 | Trackback | Comments(0)
2010年 03月 17日
家並み
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竹富島にて

by seascape_point5 | 2010-03-17 15:56 | 八重山諸島 | Trackback | Comments(2)